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ドルヌィ・シロンスク地方

ポーランドの南西部、チェコ国境の近くに位置するドルヌィ・シロンスク地方は第2のロワールと言われるほど古城の多いエリア。
古城を利用した古き良き時代のエレガントな貴族の生活を体験できるホテルも数多くあります。またこの地方は良質のミネラル分を含んだ湧水が出ることから、健康促進のための保養地が南部国境地帯を中心に発達しました。たとえばショパンが立ち寄ったドゥシニキ・ズドゥルイDuszniki Zdrój、その横にあるクドヴァ・ズドゥルイKudowa Zdrój、ポラニツァ・ズドゥルイPolanicaZdrójなどは温泉リゾートとして有名です。またチェプリツァ・ズドゥルイには国内で最も温度が高い源泉90℃の温泉があります。温泉といえばまずは温かいお風呂というイメージがありますが、ポーランドでは日本の温泉よりも水温が低い場合が多く、スパなどの施設では入浴用には加熱して利用していることがほとんどです。温浴ももちろんですが、人気ナンバー1は、やはり鉱水の飲み歩きです。それぞれの鉱水にはさまざまな疾患の治癒を助ける効能があり、訪れる人々はおみやげにもなるカップを片手に水飲み場を巡ります。

そんな保養地であるドゥシニキ・ズドゥルイにショパンが家族と共にやってきたのは1826年8月のことでした。周囲を山に囲まれたドゥシニキでは、山歩きも人気がありましたが、体が弱かったショパンができたのは近くの丘を散歩することぐらいで、滞在中に「礼拝堂の丘」Wzgórze Kapliczne(標高511メートル)を何度か歩いています。 この丘の頂上からはドゥシニキの町と周囲の山々のパノラマが楽しめます。きっと、ショパンも緑あふれるドゥシニキを感慨深く見下ろしていたことでしょう。

ドゥシニキ国際ショパン音楽祭
ショパンの滞在を記念して、ドゥシニキの町では国際ショパン音楽祭が毎年8月に開催されています。この音楽祭は、ショパン関連の音楽祭としては世界最大のもので、今年は64回目になります。この音楽祭には世界各国から、一流ピアニストが招かれますが、近年では2005年のショパンコンクール優勝者ラファウ・ブレハッチも演奏を披露しています。ドゥシニキ国際ショパン音楽祭を語るとき、ショパンのある美談を忘れることはできません。 ショパンの滞在中に、町の仕立屋が急死しました。彼の4人の遺児が孤児になってしまうことを知ったショパンはひどく心を痛めたそうです。そこで、その子たちのために、募金を呼びかけてチャリティー演奏会を開いたのでした。演奏会は大好評で同日に2回開催されたとか。ショパンが実際に演奏を行ったショパン館(左写真)は現在も同じ場所にあり、音楽祭の期間中はリサイタルの会場になります。
 

製紙博物館 Muzeum Papiernictwa  www.muzpap.pl 
ドゥシニキでは20世紀はじめまで手すきで紙を作っていました。ショパンもここの紙を使って手紙を書いています。

聖ペテロ・パウロ教会 KOŚCIÓŁ PARAFIALNY PW. ŚŚ. PIOTRA I PAWŁA
1324年に歴史をさかのぼることができるこの教会には、鯨が口を開いた形をした珍 しい説教台があります。 ul. Kłodzka 15, 57-340 Duszniki Zdrój

チェルムナの骸骨礼拝堂 Kaplica Czaszek
だれでもびっくりする礼拝堂があるのです。外見はごく普通の礼拝堂ですが、内部には1618年から48年まで続いた30年戦争や1756年に起きた7年戦争、また18世紀にコレラなどの疫病で亡くなった人々の3000個の頭蓋骨などが壁や天井にぎっしり。さらに床下は2万から3万人分の遺骨が納められています。この礼拝堂はチェコ人のヴァツワフ・トマシェク神父によって1776年に建てられました。神父は1784年まで8年の歳月をかけて犠牲者の骨を集めて消毒を行い、納骨しました。多くの民間人や戦場で散った敵味方の軍人らがいっしょに葬られている納骨堂は、人生がいかにはかないものかを教えてくれます。毎年8月14日、15日にはこの納骨堂に納められている人々と不治の病や不慮の事故によって亡くなった人々のためにミサがとりおこなわれています。

クションシュ城 www.ksiaz.walbrzych.pl

名門ホッホベルク家の栄光を伝えるこの名城は、13世紀後半にボルコ・スロヴィ公が数多く建てた城砦のひとつとして着工しました。1392年までピアスト家が所有していたクションシュ城は、約百年後の1497年にはチェコ王ヴウァディスワフ2世ヤギェロンチクが宰相ヨハン・フォン・シェレンベルクに城を払い下げ、1508年にはヨハン・フォン・ハウグヴィッツが短い間オーナーとなりました。しかし翌年6月にホッホベルク家のコンラート1世が譲りうけ、それ以来1941年のナチスによる強制接収までホッホベルク家はクションシュ(ドイツ名フュルステン)城主となったのです。城は18世紀初頭から40年近くをかけて増築工事が行われ、この時代にみごとなバロック様式の翼が完成しました。改築工事は度々行われましたが、なかでも1907年からハンス・ハインリヒ15世が行った大工事はクションシュ城の最後の大改修となりました。この間に西翼、北翼が完成しています。遠くからでも目立つ塔は高さ47メートルを誇っています。城内にはホッホベルク公爵家に関する展示も充実しています。
 1891年12月にハンス・ハインリヒ15世とのちに公爵夫人デイジーと呼ばれて親しまれたマリア・テレサ・コンウォール=ウェストの婚礼の儀が執り行われ、二つの大戦と戦間期を生きたマダム・デイジーは歴代のミストレスのなかでも波乱万丈の人生を送った女性として知られます。ホッホベルク家はナチスに対する抵抗の姿勢を崩さず、長男のハンス・ハインリヒ17世は英軍で、弟のアレクサンダーはポーランド軍に入隊してドイツ軍と戦いました。ナチスに城を接収されたことでデイジーはヴァウブジフに移りましたが、1943年に亡くなりました。
その後の研究でクションシュ城には第2次世界大戦のさなかにベルリンから疎開していたプロイセン王家の蔵書などが保管されていたこと、また1943年にはナチスが秘密基地の建設に取り掛かり、ちょうど城の地下にあたる場所に約1km続く地下トンネルが掘られたこともわかっています。この通路がどういう目的で造られたのかについては研究家からさまざまな意見が出ていますが、実際にはどうだったのかまだはっきりしていません。1956年以降、県の管理下で修復工事も行われるようになり、1991年からはヴァウブジフ市がこの城を管理しています。現在は観光客も多いドルヌィ・シロンスク地方の名所の一つとなっています。

ヴロツワフ

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