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クシシュトプル城

ポーランド南東部の都市キェルツェ近くのウヤズドUjazdにはクシシュトプル城という城の廃墟があります。その一帯は12世紀頃からシトー会修道院の領地となっていましたが、1619年に名門貴族のクシシュトフ・オソリンスキが相続しました。オソリンスキは文学、芸術、政治に外交と幅広い分野で活躍し、深い教養を持った人物であり、地元の貴族らが集い、地方政治と文化の中心になり得る立派な城を造るという構想と練ったのでした。そして1627年から44年までの間に何期かに分けて工事を行いクシシュトプル城は完成しました。設計者はヴァヴジニエツ・セネスです。
この城について語るとき忘れられないのが「1年」というスパンです。ここにあった塔は4か所で、その数には四季の4という意味があったといわれます。また12か月にちなんで大広間は12室、1年が52週あることから部屋数は52室、さらに窓の数は1年の日数と同じ365ヶ所にありました。

オソリンスキ家の家紋と作の1655年当時の見取り図

 残念ながら17世紀の設計図がなくなってしまっているため、元はどのような形をしていたのかは謎だそうです。 クシシュトプル城はルネサンス期にイタリアから伝わったの様式を持つ城。つまり、要塞としての機能を持つ城で、このクシシュトプル以外にはクラクフからも近いノヴィ・ヴィシニチ城、バラヌフ・サンドミエルスキ城などが同じ様式になっています。
夢の城の完成を喜んだのもつかの間で、施主のクシシュトフ・オソリンスキは完成後わずか1年で亡くなり、息子のクシシュトフ・バルトヴィンが後を継ぎます。しかしそれから3年後に、ボフダン・フミェルニツキの先導したコサックの蜂起とタタール人来襲に備えた東部国境に防衛のためにフサリア(ポーランド軍の騎兵隊)を率いて出征したクシシュトフ・バルトヴィン・オソリンスキはズボルフの戦いでタタール人の矢で致命傷を負い戦死。それ以来クシシュトプル城には白馬にまたがった黒騎士クシシュトフ・バルトヴィンの亡霊が現れるとか。
後継ぎのいなかったクシシュトフ・バルトヴィンの死によってオソリンスキ家は断絶し、遠縁の貴族カリノフスキが城を相続しました。しかし、時は「大洪水時代」。ポーランド史のなかで「大洪水」と形容されるこの時代は、スウェーデン軍の侵略に悩まされ続けた時代であり、クシシュトプルにも押し寄せてきたスウェーデン軍は城の調度品など金目の物を略奪してゆきました(1655年)。
幸か不幸か、その時には建物の構造自体には被害は受けなかったのですが、後のバール同盟の戦いで激しく破壊を受けたことは大変残念です。
クシシュトプルという名称は2つの名詞から成り立っています。ひとつ目は十字架(クシシュ)で、オソリンスキの信仰と知事としての地方行政のシンボルと信仰の証である十字架を表しており、二つ目は手斧(トプル)で、これはオソリンスキ家の紋章に由来しています。城門にはこの二つが掲げられています。


 情報: 名称 Instytucja Kultury - Zamek Krzyżtopór w Ujeździe
     住所 Ujazd 73, 27-570 Iwaniska
     tel. 15 860 11 33 e-mail: zamek@krzyztopor.org.pl
     クシシュトプル城公式サイト(外部リンク)
     開館時間: 4月~9月 月曜日~日曜日 8:00-20:00 

     10月 月曜日~日曜日 8:00-17:00
     11月~3月 月曜日~日曜日 8:00-16:00
     入館料: (2016年2月現在) - 大人 10 zł 一般 団体( 20名より) 8 zł
     アクセス  UjazdへのアクセスはキェルツェKielceからレンタカーが便利。 バスは直通の本数が極端に少ないので2回の乗り継ぎが必要になります。
     バス便検索サイ
     宿泊: 城の近くに民宿あり     
     民宿の詳細情報(外部リンク)

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