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国旗と紋章
昔から鷲は神々しい鳥とされ、勇ましさや優れた能力を象徴とされてきました。伝説によれば、今のポーランドの位置にあったポラニェ国の建国者レフが鷲を紋章に選んだとされています。レフ王が今のポズナン近くまで来たときに巣から姿を見せた勇猛な鷲に感動し、鷲の柄を旗に描き入れたといわれています。またその地を「巣」を意味する単語にちなんでグニェズドノと命名したという言い伝えがあります。

国章として鷲が最初に使われたのは、ボレスワフ勇敢王の治世であった西暦1000年に、グニェズノ会議の際に鋳造した貨幣の刻印としてでした。当時の鷲は今日の紋章の鷲とは似ても似つかないものでしたが、ほぼ間違いなく白鷲であったようです。ただ、その紋章が使用されたのは1回限りで、王 冠を戴いた白鷲が正式な国の紋章となったのは1295年のこと。プシェミスウ2世がポーランド王として戴冠した時で、紋章の背景は赤色の単色でした。

鷲は国家よりも強かった――。鷲の紋章は三国分割、数々の戦争や政治体制を経ても変わることはありませんでした。社会主義時代には当時の政権によって鷲の頭上にあった王冠が消されてしまいましたが、1989年の体制の転換によって王冠は元の位置に戻されました。現在のポーランドの国章は1927年にジグ ムント・カミンスキ教授がデザインしたものです。

国旗の色も偶然選ばれたわけではなく、それぞれに意味があるのです。白は実直さや善、また赤は勇敢の象徴でした。そして、紋章学の原則に則り、上は白色、下は赤色と定められたのです。二色はちょうど縦幅半分のところで上下二層に分けられています。

白鷲――ポーランドの紋章
ポラニェ国の建国者レフは、ある旅の途中で現在のポズナンのあたりに泊まりました。宿のそばの木には大きな鷲の巣があって、白鷲が1羽、そしてひなが2羽いるのが見えました。レフはじっとその鷲を見つめていると、夕陽の強く赤い光からひなを守るかのように白鷲がゆっくりと翼を広げました。その神々しいまでの威厳にレフはすっかり感動して、ここに定住することを決めました。そして赤い色を背に羽を大きく広げる白鷲の姿を自分の紋章に描き入れ、その土地 には、「巣」を意味するグニャズドという言葉から取った「グニェズドノ」という名をつけました。ここは
ポーランド国家の最初の首都となった土地で、今はグニェズノGnieznoという都市があります。

国歌

当初、この歌は「在イタリアポーランド軍団の歌」として知られていました。1797年、ユゼフ・ヴィビツキが町から出征していくポーランド軍団の はなむけに書いた詞でした。この歌詞がマズルカのリズムで歌われると、またたく間に軍団全体に広まり、その後も愛唱され続けました。

『ポーランド未だ死なず』

1797年7月のある夜のことでした。レッジョ・ネレミリアの司教館で、ユゼフ・ヴィビツキはヘンリク・ドンブロフスキ将軍が率いるポーランド軍団を励ますために、ある軍歌を書きました。「ポーランド未だ死なず。われら生き抜く限り」と始まるその詩は、その後、ポドラシェ地方の歌といわれた作者不詳のマズルカのメロディーをつけて歌われました。

「ドンブロフスキのマズルカ」はポーランド軍団で愛唱され、11月革命や「諸民族の春」という激動の時代のなかで17言語の翻訳が出ました。そしてほかの国、特にユーゴスラヴィアなどの国歌作曲家に対して多くのインスピレーションを与えました。

長く非公式の国歌とされてきたこの歌が正式にポーランド共和国国歌と定まったのは1927年2月26日のことでした。

「ドンブロフスキのマズルカ」の手稿は第二次世界大戦で行方不明になっています。ヴィビツキの子孫がベルリンの銀行に保管していましたが、その後、おそらく旧ソ連軍に運び出されたものと考えられています。今日ではコレクターが最も探し求めているアーティファクトの一つとなっています。

1950年代に、社会主義的な人民共和国憲法へと改憲されたのを期に、国歌も新しいものを制定しようという動きもありました。当時の大統領ボレスワフ・ ビェルトは詩人ヴワディスワフ・ブロニェフスキに作詞の依頼をしたものの、彼はその提案に怒り心頭、電話口で大統領をののしり断ったのでした。最終的に、 詩人のコンスタンティ・I・ガウチンスキが「大好きな国、愛される国」という歌詞を書いたのですが、結局スターリンのお気に召さず、お蔵入りとなりまし た。

ベンドミン国歌博物館:国歌など各国の最も重要な歌曲を専門に扱った世界で唯一の博物館。西洋シナノキが影を落とす18世紀建造のその建物は、ユゼフの父、ピョートル・ヴィビツキの館でした。国歌の作者生誕の場所です。

通貨
ポーランドで最初の貨幣が鋳造されたのは、国がキリスト教を受容し“西欧”の仲間入りをしたのと時を同じくしていました。ミェシュコ1世に始まる歴代の国 王たちは、両面に刻印を施した肉厚の銀貨を鋳造しました。しかし、そういった貨幣そのものに価値があるお金というのは、徐々にその価値が失われていってし まうものです。11世紀も末になると、貨幣は片面のみ刻印された薄っぺらな金属板状の粗末なものになってしまい、しまいには折れて真っ二つに割れてしまう ほどでした。


14、15世紀の頃は、諸外国の通貨であったデュカット金貨やフローリン金貨がズウォティと呼ばれていました。ポーランド・ズウォティは貨幣としては存在 しておらず、30グロシュの単位を表す言葉としてだけ機能していました。それが貨幣として出現したのはようやく1564年になってのことです。それは半コ ピと名づけられていました(「コパ」という60の数量を表す単位から取られた名前です)。

1924年にはポーランド銀行(Bank Polski)が新しい貨幣制度を導入しました。当時の財務大臣ヴワディスワフ・グラプスキはポーランドの通貨単位としてレフあるいはポルという名称も検 討していましたが、最終的には伝統あるポーランド・ズウォティが採用されることになりました。ズウォティが戦時中のポーランド・マルクに取って代わり、ま た初めて1ズウォティ=100グロシュと定められました。その価値は金0.1687グラム分とされました。交換可能な、強く一定価値を持った貨幣であり、 戦前の1ズウォティは今日の8ズウォティ分もの価値がありました。

しかし社会主義的経済はズウォティの役割を弱体化させてしまいました。国内のみに流通する交換不可通貨になってしまったばかりでなく、国内では米ドルがズウォティを席巻してしまいました。

世の中に本来のズウォティが復活したのはようやく1989年以降のことですが、その後も大変な困難が待ち受けていました。自由を得たポーランド国内にはイ ンフレが生じ、国民は日ごとに「億万長者」になっていくのでした。しかし財布にはちきれんばかりの紙幣で買えるはずの商品の方は、日ごとにどんどん少なく なっていったのです。そして最終的措置として、年配のポーランド人にとっては悪夢として現在も記憶に鮮明なデノミが行われたのです。1995年1月1日の こと、ゼロ4桁分が切り捨てられました。今まで何万ズウォティであったものが、わずか数ズウォティと交換されることになったのです。

果たして結果やいかに? 驚くなかれ、全ては何の問題も無くうまくいったのです(勿論、この改革に必要とした3千万ズウォティという出費を考慮しなければ、の話ですが!)。国民 は、何百万もの稼ぎを得ることも、また支払いに使うこともなくなったのです。以前のグロシュ単位も戻ってきました。ですから今日もし本当に財布を大量のお 札で膨らませている人がいるならば、それは紛れもない本物の「億万長者」といえるでしょう。

ズロチ? ズウォティ?

ポーランドの通貨は「ズウォティ」と読み、ポーランド語では złoty と綴ります。略号として zł. や PLN と書かれていることもあります。

「ズウォティ」の下の単位は「グロシュ」。1ズウォティ=100グロシュです。

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日常会話の中ではズウォティという読み方の代わりに「ズウォトゥフカ」というくだけた表現をすることもあります。

流通しているコイン・紙幣の種類:
  硬貨(グロシュ)… 1, 2, 5, 10, 20, 50 gr
  硬貨(ズウォティ)… 1, 2, 5 zł
  紙幣… 10, 20, 50, 100, 200 zł

言語
妻を精一杯気遣ってやる男の言葉は次の通り„daj, ać ja pobruszę, a ty poczywaj”、すなわち「おまえは休みなさい、あとは私が挽くよ」。1270年のある時発話されたこの言葉はヘンリクフの書に記録されました。この 書はヘンリクフ出身のシトー会の僧が日々の暮らしを綴ったものです。100ページに及ぶその貴重な記録書は、ヴロツワフ大司教区博物館に所蔵されていま す。

ポーランド語を母語とする人口は、世界中で約4,600万人にのぼり、地球上で21番目によく使われている言語となっています。かつてマウォ・ポルスカやヴィエルコ・ポルスカ地方で話されていた方言が何世紀もの時代を経て、現在のポーランド語へと熟成して行ったのです。

ポーランド語は西スラヴ語族に属しており、近親の言語としてはチェコ語、スロヴァキア語、ポメラニア語、カシューブ語、上・下ソルブ語、そして死語となっ てしまったポラーブ語があります。ポーランド語にはまた、ゴート語やフィン・ウゴル語派、ケルト語方言といった古代言語の影響を見て取ることもできます。

ポーランドの古語を良く残しているのは各地方の方言やなまりです。カルトゥージやコシチェジーナ周辺に住む人々は” gôdają po kaszëbsku”(カシューブ語で話している)し、シロンスクの人々は”ślunska godka”(シロンスク方言)を使っています。またポトハレ地方の山岳民たちは古代ゆかしいザコパネ方言を今も用いています。しかし、残念ながら戦後、 殆ど完全にワルシャワ方言は消えてしまいました。風刺家でコラム作家のステファン・ヴィエフ・ヴィエヘツキが世に広めたその下町言葉は、プラガ地区のシュ ムルキやヴォラ地区のケルツェラクなどのバザールで粋な商人たちが使っていた、華があり、指小形にあふれた言葉でした。

ポーランド語は落とし穴だらけです。文法や正書法も例外や音韻交代、覚えるのも難しい格変化の法則、ナンセンスな活用(例:「 手は」ręce-「手で」rękoma、「犬は」pies-「犬の」psa)といったものに満ちているのです。外国人(とりわけ英語圏の人々)にとって最 も難しいのは発音です。ともかくシャ行やチャ行といった独特の摩擦音による子音だらけなのですから。けれども、こういったポーランド語学習の困難に真っ向 から取り組もうとするならば、必ずや充実感たっぷりの大冒険ができることでしょう!

政治体制

ポーランド人は生粋の民主主義的民族なのです。すでに15世紀ポーランドでは「シュラフタ民主制」による統治が行われていたほどです。市民の中から 選出された者たちに国家の命運を決定するチャンスが与えられていたのです。そして、ポーランドはヨーロッパで最初の、また世界でも2番目の、「近代憲法」 を制定した国家でもあるのです。


民主主義と自由市場
ポーランド人は生粋の民主主義的民族です。なぜなら15世紀ポーランドでは既に「シュラフタ民主制」による統治が行われていたからです。選ばれた市民には 国家の命運を決定するチャンスが与えられていました。ですから、ポーランドがヨーロッパで初の、また世界で2番目の、「近代憲法」を制定したということに も納得していただけるでしょう。

自由市場経済システムを擁する議会制民主主義国家としてのポーランドをめぐって、ポーランド人たちは40年以上にもわたって、共産政権と争ってきました。 果たしてそれは意味のあることだったのでしょうか?「勿論!」と、統一労働者党支配時代を記憶する人々は口を揃えるでしょう。面白いのはバレヤの映画の中 だけのことです。現実の世の中では、チョコレートもどき加工品の味やら、肉・砂糖・ガソリン配給チケットやら、お店の空っぽの棚やら、トイレットペーパー にいたるまで長蛇の列に並ぶことやらに喜んでいる人は誰一人としていなかったのです。

1989年からポーランドは複数政党制による民主主義国家となりました。ポーランド統一労働者党の一党支配終焉後の大改革により、今日では誰もが政党を立 ち上げることができるようになりました。もちろん結成後は党員や支持者を集めなければならないわけですが。立法府である議会は両院制で、下院(セイム)と 上院(セナト)から成り立っています。下院議員は460名、上院議員は100名で任期は4年となっており、普通選挙・平等選挙・直接選挙・比例代表制・秘 密投票の原則によって選出されます。

行政を担うのはポーランド共和国大統領と内閣です。大統領は5年の任期で、普通選挙によって選出されます。下院の決定に従って、内閣は内政と外交を執り行います。そのトップに立つのは首相で、支配政党の推薦により大統領が任命します。

これら権力から完全に独立しているのは司法で、裁判所はポーランド共和国の名において判決を言い渡します。法廷は最高裁判所、普通裁判所、地方裁判所、軍事裁判所に分かれています。

政治体制の転換は経済改革をもたらしました。多くの産業分野の民営化や、抜本的制度改革により、国内総生産は大きな伸びを見せ、数年間にわたってヨーロッ パの中でも最高水準の伸び率を誇りました。これらが実現するきっかけとなったのは、ポーランドが西欧の軍事的・経済的枠組みの中に入ったことです。ポーラ ンドは1999年からはNATO(北大西洋条約機構)の、また2004年からはEU(ヨーロッパ連合)の一員となっています。

行政区分
国が県単位に区分され、県がさらに郡へ、郡がグミナへ、と分割されていく方式は歴史的なルーツを持ちます。地域の分割が行われ始めた頃から、既に県という 行政単位の概念が形作られ始めていました。正式に定められたのは14世紀から15世紀にかけての頃です。郡の方はいくぶん歴史が浅く、14世紀後半になっ てから区分されるようになりました。この体制は何世紀にもわたってずっと続きました。ところが1975年になって、郡を廃止し49の小さな県に区分すると いう制度が採択されたのです。

23年の時を経て、規模の大きな県を軸とした三段階地方行政区分のやり方に戻ったわけですが、このことでポーランドのEU加盟後、各県は他の地域と互いに 競争しあうことができるようになりました。新たな県制度を導入するにあたっては白熱の議論が交わされました。とりわけオポーレとキェルツェの反対は強固な もので、そのために、当初予定されていたよりもはるかに多い、16という県が生まれることになったのです。しかしこれで円満にというわけには行かず、現在 もなお、中央ポモージェ県とスタロポルスカ県の二つを新たに設置するよう要請が続いています。

最大の県であるマゾフシェ県は国土の11%を占めています。最も小さな県はオポーレ県です。最も人口密度の高いシロンスク県は1平方kmに381人で、こ れと比べればヴァルミア・マズールィ県の59人/平方km、ポドラシェ県60人/平方kmはずい分と閑散として見えますね。

都市としての郡の中で最大なのはワルシャワ、最小の郡はシロンスク県のシフィエントフウォヴィツェです。この郡は同時に、4210人/1平方kmというポーランド最大の人口密度をほこってもいます。一般の郡の中で人口が最大なのはポズナン、最小なのはセイヌィ郡です。

ポーランドで最も小さなグミナはバルトシツェ郡のグローヴォ・イワヴェツキェ、最も人口密度が高いのはプルシュクフ郡のピアストゥフ(1平方kmに4002人)、最も人口密度が低いのはポリツェ郡のノーヴェ・ヴァルプノ(1平方kmに10人未満)です。

ポーランドの16の地方区分

  • ヴァルミア・マズールィ地方 Warmia - Mazury (ヴァルミンスコ・マズルスキェ県, warmińsko-mazurskie)
  • ヴィエルコポルスカ地方 Wielkopolska (ヴィエルコポルスキェ県, wielkopolskie)
  • ウッチ地方 Łódź (ウゥツキェ県, łódzkie)
  • オポーレ地方 Opole (オポルスキェ県, opolskie)
  • クヤヴィ・ポモージェ地方 Kujawy - Pomorze (クヤフスコ・ポモルスキェ県, kujawsko-pomorskie)
  • シフィェンティクシシュ地方 Święty Krzysz (シフェントクシスキェ県, świętokrzyskie)
  • シロンスク地方 Śląsk (シロンスキェ県, śląskie)
  • ドルヌィ・シロンスク地方 Dolny Śląsk(ドルノシロンスキェ県, dolnośląskie)
  • 西ポモージェ地方 Pomorze Zachodnie (ザホドニョポモルスキェ県, zachodniopomorskie)
  • ポトカルパチェ地方 Podkarpacie (ポトカルパツキェ県, podkarpackie)
  • ポドラシェ地方 Podlasie (ポドラスキェ県, podlaskie)
  • ポモージェ地方 Pomorze (ポモルスキェ県, pomorskie)
  • マウォポルスカ地方 Małopolska (マウォポルスキェ県, małopolskie)
  • マゾフシェ地方 Mazowsze (マゾヴィエツキェ県, mazowieckie)
  • ルブシュ地方 Lubusz (ルブスキェ県, lubuskie)
  • ルブリン地方 Lublin (ルベルスキェ県, lubelskie)

祝祭日

ポーランド人たちは休暇が大好きです。ポーランドの年間における祝日の多さはヨーロッパで2番目を誇り、11日の祝日があります。ポルトガル、マルタ、スロヴァキアが12日、ハンガリーではわずか6日です。

クリスマス――最も大切にされ、一年中で最も愛されている祝日――には、一家全員がテーブルに集います。伝統に従って、オプワテクと呼ばれる白く て薄いウェハースを互いに割りあう儀式に始まり、12の料理が夕食の席に並びます。一方、復活祭(イースター)では朝食を共にとります。その席でポーラン ド人たちは聖別された卵を分かち合うのです。また翌イースターマンデーには、幸運を願って皆で水をかけ合います(地域によっては茨で叩き合う習慣もありま す)。

他の宗教祭日はもっと控えめなお祝いの仕方をします。公現祭(1月6日)にはクリスチャンたちはチョークで玄関のドアにK+M+Bの文字を書きます。聖霊 降臨祭には教会に菖蒲を持ってゆきます。聖体祭には行列になって4つの祭壇を巡ります。聖母マリア被昇天祭の日には何万もの巡礼者たちがチェンストホー ヴァのヤスナ・グラ寺院聖堂の前に集い、祝福のミサを受けるのです。

国民の休日は、ポーランド人たちは主にのんびりとしてすごします。5月1~3日は大都市の市街地は閑散とし、逆に観光地はまさに芋を洗うような人出でにぎ わいます。なぜならメーデーに続いて国旗の日、憲法記念日と連休が定められており、まさに大義名分にのっとって怠けることができるからです。

この他にも、休日ではないものの、ポーランド人が喜んでお祝いをする記念日として、女性の日、子どもの日、おばあちゃんの日、おじいちゃんの日、鉱夫の 日、バレンタインデー、聖アンデレ(アンジェイ)の日…などがあります。西方起源、東方起源を問わず、お祝いするという伝統があることに変わりはありませ ん。ともかく祝日というのは、楽しく遊んで、また近しい人々をよく想い、気持ちを伝え合う、そういったことができる絶好のチャンスなのです。

祝祭日カレンダー
1月1日…元旦
1月6日…公現祭
復活祭
復活祭の60日後…聖体祭
5月1日…メーデー
5月2日…国旗の日
5月3日…憲法記念日
8月15日…聖母マリア被昇天祭
8月31日…連帯と自由の日
10月16日…ヨハネ・パウロ2世の日
11月1日…万聖節(諸聖人の日)
11月11日…独立記念日
12月24日…クリスマス・イブ
12月25、26日…クリスマス

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