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ウッチ

 かつては紡績の中心地として知られたウッチ。現在は、インフラの改善と観光客の誘致に力を入れており、アール・ヌーヴォーの街並みが美しいピォトルコフスカ通りの整備や年間を通じて魅力的なイベントが開催されています。レンガ造りの工場跡を利用した総合アミューズメント施設マヌファクトゥーラManufakturaはウッチの新名所として観光客にも親しまれています。
   歴史上に初めてウッチについての記述が現れたのは1332年のことでした。後にポーランドのマンチェスターと呼ばれるようになるこの町も、当時はまだほとんどの住民が農業に従事していたため「農村ウッチ時代」と呼ばれました。
 16世紀半ばになると人口は650から800人ほどになり、手工業を中心に町は少しずつ発展を見せたものの、17世紀にから19世紀はじめまでは、まだかろうじて地図上に名を残す町にすぎませんでした。都市としての成長を始めたのは19世紀初頭からのこと。近郊からの住民の流入に加え、手工業者、商人が活発に活動することで市場が活気付いてきたのです。しかし、本当の発展は19世紀前半に始まったといえるでしょう。その一因として、ワルシャワ公国とロシアの関税が撤廃されたのことがあげられています。               

 1820年にわずか767人の住民がいたウッチは工業都市として当時の政府に手厚く保護されました。1824年から28年にかけて幹線道路ピォトルコフスカからヤシェニ川までの地区の居住地区化が進み、その後1840年までに町の面積は27k㎡にひろがり、人口は1万人に達します。さらに、1864年の農民解放とともに、安い労働力として農業従事者が大量にウッチに流れ込み、1903年には人口は32万人を数えるまでになったのです。その結果として数万人が住むバウティ(Bałuty)、ホイヌィ(Chojny)といった下町が形成されてゆきました ウッチは紛争とともに拡大していった都市ともいえるでしょう。例えば1861年の織工の暴動、1892年のウッチ大暴動、また1905年の革命へのかかわりなど、町全体が祖国解放運動に常にかかわりをもち続けてきたのです。第一次世界大戦によって、ウッチの都市としての発展は一時停滞期を迎えます。特に工業面で戦災の被害を被ったことは大きな打撃となりました。その後、大戦間期になって経済復興を目指し、集合住宅の建設や市民の文化、教育のレベル向上が図られ、再び成長を続けてゆきます。両大戦間期は、博物館、美術館等が設置され、大演出家レオン・シルレルLeon Schillerなど、芸術文化関係の有名人が多数活躍したことで知らています。しかし、この平和な時代も1939年9月9日からのナチス・ドイツによる占領時代に、再び中断され、戦時中は市の名称もリンツマンシュタットとドイツ風に変更されてていました。1945年1月19日には町全体が解放されましたが、戦禍によって工業設備の多くと原料、また人口の60%を失うという大打撃を被り、新政府は前途多難な展望とともに戦後の再建を計ることになりました。

 そして、戦後から現在にかけて経済の発展、市有地の拡大とウッチ市の面積の増大、これまでの市街地にあった工場も郊外化(Dąbrowa, Teofilów, Nowe Sady, Żabieniec地区など)が進みました。また上下水道の整備と発電所の建設、それに伴い巨大団地群の建設(Retkinia, Widzew-Wschód, Dąbrowa, Teofilów, Radogoszcz)や旧市街地の老朽化した住宅の大規模修繕工事などが行われ、ワルシャワに次ぐポーランド第2の大きさを誇る都市となっています。人口はポーランドの5大都市の中では唯一減少傾向の激しい都市であり、1988年のピーク時に約85万人であったのが、2010年の統計では73万人となっています。

 ポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の映画『約束の土地』に出てくるのは19世紀のウッチ。ワイダやキェシェロフスキといった映画監督や俳優などポーランドの映画・舞台人が輩出した国立映画大学があるのもこの街です。
ポーランド映画に興味があれば、市内の映画博物館もおすすです。

映画博物館 ( The Film Museum) kinomuzeum.pl

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